「私は楽園(パラディースス)から逃げ出した。1歩間違っていたら、きっと私もあのようになっていたのかもしれない…」
1人の男が救いを求めたモノ…それは『箱船(アーク)』という名の狂気───。
「調子はどうだい?」
「あ…はい。大丈夫」
彼女との会話。
それは彼が求めて止まないモノだった。
(随分…似てきたな。エリスと…)
彼は目を細めた。
それが、狂気故の愚行だと知りながら、それでも喪ったモノを再び手に入れたいという欲望は止まらない。
「そうか…それは良かった」
彼は彼女を抱き締めた。
無機質的な空間に咲いた1輪の花。
それを守るかのように…そっと、そっと。
何度も失敗して、そしてやっと手にしたモノ。
けれど、それは同時に彼のトラウマをも甦らせる。
実験を繰り返し、かつての恋人の残留思念を焼き付け、持てる全てを注ぎ込んで作り上げたモノ───それが『ソロル』だった。
その実験がどれ程人道に背いたモノであるか、彼は理解していただろう。
それでも、彼は再び逢いたかったのである。
実験は、『他人になれる』という触れ込みの元、『楽園(パラディースス)』では狂気の医術が多くの少年少女に施された。
それは、かつての『彼』の記憶と『彼女』の記憶とを少年と少女に植え付け、経過を観察するというモノだった。
その実験には催眠術、投薬、外科手術、整形───あらゆる手段を用いて行われた。
中には法に触れるモノもあったという。
「どうして…お兄様は分かってくれないの? 突き放さないで…っ! いやぁっ!!」
その実験は少年少女を1組のカップルとして扱った。
だが、植え付けられた記憶は兄妹───。
それはすなわち、擬似的な近親相姦であった。
中には発狂して少年を刺し殺す少女も存在した。
「楽園(パラディースス)へ帰りましょう…」
そう、呟きながら───。
そうして数多くの少年少女が死んだ。
この世界における警察などは無意味だった。
それ程に、『楽園(パラディースス)』の宗教は肥大化していた。
それらを目の当たりにしたある女性は彼に向かって言った。
『神にでもなったつもりなの…?』と。
しかし、その言葉が彼に届く事は無かった。
何故なら、彼女は既に死んでいたからである。
そうやって、何年かが過ぎた。
実験に成功したたった1人の少女。
それが『ソロル』だった。
しかし…それも束の間───。
「もう…止めて、お兄様」
「ソロル? いや…まさか───」
「そう、エリスよ。お兄様に伝えたくてこの子の身体を少しだけ借りたの」
驚くべき事だった。
彼も流石にここまでは予想だにしていなかっただろう。
「ああ、私の愛しいエリス…何故?」
「死んだ人は生き返ったりしないの…ほら」
エリスは『ソロル』を通して手を差し出した。
しかし、彼はその手に触れる事が出来なかった。
「死人(しびと)の魂が降りた器ではお兄様に触れる事すら出来ないの」
「しかし、エリス…!」
「さよなら、お兄様。あの時…受け入れられなかった私を許して…」
掠め取るようなキス。
けれど、その唇と彼のそれが触れる事は、やはり無かった───。
苦シイ…助ケテ。
イヤアアアア。
それを境に苦しみ出す『ソロル』。
どうやら、今までの被験者と同じく記憶の拒絶が起こったらしい。
そして、そこには既にエリスはいなかった───。
のたうち回りながら逃げる彼女。
それを見ながら彼は呟いた。
「失敗、か…」
かつて喪った左手の薬指。
生涯、エリスしか愛さないという誓い。
彼女を喪った時、その場所もまた土へと還した。
自らの手で、箱舟(アーク)という名のナイフを使って。
そこに嵌まっていたはずのモノを想い出し、虚しさでいっぱいになる。
と、そこまで考えてふとモニターに目をやると。
逃げ出した『ソロル』の後ろにはいつの間にか、仮面の男が立っていた───。
後書き
知っている人はすぐに分かったであろう、Sound Horizonの「Ark」を私なりに小説化してみました。つか、これ。難し過ぎる…orz 私のヘタレな読解力と描写力じゃこれが精一杯でした;;
原曲では楽園は単なる「楽園」となっていましたが、「妹(ソロル)」、「兄(フラーテル)」と揃えてラテン語で「楽園(パラディースス)」としました。